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2007.05.30
インターフェイスにおける、色・形・アフォーダンス
左の画像は、我が家のキヤノン製スキャナの電源ボタンである。
「ー」がON で「○」がOFFを示している。
しかし、アイコンだけでON/OFFを判断せよと言われたら、断然「○」がONだと考える。どう見ても「○」がOFFには見えない。「ー」の方はON/OFFどちらにも見えない。
右の画像はPANASONIC製デジタルカメラのバッテリー・チャージャーである。電源とチャージの状態を示すランプが二個ならんでいる。今はエンプティのバッテリーをセットしたところで、チャージランプは稼働中で青を示している。チャージが終わるとこのランプは消えて電源の赤ランプだけになる。
赤ランプは信号からの連想でどうしてもストップサインに感じ、青ランプはOKサインに見える。したがって、チャージ中に青ランプが点灯しているのには強い違和感がある。チャージ中は赤、チャージ完了で青にする方が誤解が少ないと思う。しかし、PANASONICはその逆になっている。
次に、これもPANASONIC製デジタルカメラの露出測光モードを示すアイコンである。「評価測光」(※1)と「中央重点測光」を表している。とちらが中央重点測光かと聞かれたら躊躇せず右側だと答える。中央に位置する黒点が中央を強調しているように見えるからだ。しかし実際は右側が評価測光で、左側が中央重点測光である。
(※1)カメラに詳しくない人のために簡単に説明しておくと、「評価測光」とは、カメラが画面全体の光の状態を自動的に計算して露出を決定する便利なモードであり、「中央部重点測光」は、文字通り、画面の中央部を重視して測光するモードである。
こんどの画像はOLYMPUS製デジタルカメラの電源ボタン部分のアップである。スライド式になっていて、左端がOFFで右に向かって再生→静止画→動画と移動する。カメラだから使用頻度が最も高いのは静止画モードである。しかし、静止画モードが中間に位置しているため、そこで止めるには力を加減をしないと通り過ぎて動画モードになってしまう。かといって力が不足するとこんどは手前の再生モードで止まることになる。デリケートな力加減を要求されるので、眼で確認しながらでないとうまくできない。静止画モードを右端に移せば、OFFから一気に右端までスライドさせればいいのでその方が使い勝手がよくなるはずだ。さらに言えば、モードの切り替えと電源のON/OFFは別にした方がいい。
●
プロダクトデザインにはアフォオーダンス(Affordance)という概念がある。アフォーダンスとはプロダクツの物理的な形状が操作方法を示唆する働きのことを言う。たとえば、ドアにノブがあればまず回してみようとするし、取っ手があれば手前に引くか押すか、横にスライドさせようとするだろう、フラットだと押すことを考える。形状がそうした操作を促すのである。
デジタル一眼レフカメラの電池は間違った方向に差し込む心配がない。かまぼこ型をしたリチウムイオン電池はその形状のせいで逆だと入らないからだ。このような場合、電池がアフォーダンスをもっているという言い方をする。
東芝電気釜1955年に発売された東芝電気釜は羽釜の形を踏襲していた(競合他社の製品は寸胴の形であった)。食文化の基本中の基本である炊飯という行為を電気釜が引き継ぐためには、羽釜の形状が大事だと考えたからである。東芝電気釜が大ヒットした背景には、釜を模したデザインが炊飯という行為をアフォーダンスしたことが大きい。竈(かまど)をイメージした黒い電源部分、釜本体、蓋といった各部が羽釜の機能をアフォーダンスして、家庭の主婦が迷うことなくこの新しい電気製品を使うことを可能にしたのである。
ちなみに、ネーミングも電気炊飯器でなく電気「釜」であった。
電気釜やカメラ、電池の場合は、アフォーダンスが悪くてもそれで人が死ぬわけではないが、これが例えば病院で使われる機器だと命にかかわるケースもでてくる。時々、薬を取り違えて患者を死なせてしまったというニュースに接するが、そのたびにユーザインタフェースにおける形や色、アフォーダンスに問題がなかったかどうか、事前にもっと検証されるべきではなかったかと感じ、残念に思うことがある。
2007.05.29
ストックフォトサービス「OADIS」

ストックフォトサービス「OADIS」
5月28日、オリンパスとアーテファクトリーが提携して、新しいストックフォトサービス「OADIS」(Olympus Artefactory Digital Imaging Service)を開始した。オアディスと読む。
アーテファクトリーは、京都を起点にして、寺院や美術館の文化財をデジタルアーカイブしている会社のようだ。
ニュースリリースによると、OADISは、国内外のプロの写真家、イラストレーター、フォトライブラリー、美術館、出版社などのコンテンツ・パートナーと提携しており、取り扱うコンテンツ総数は200万点以上。まずは約20万点をオンライン販売し、随時新作を追加する予定という。広告業界や出版業界のクリエイター、編集者などを顧客に想定している。画像利用料金は、使用用途やサイズ、期間、印刷数量などによって異なり、1枚あたり約3,000円〜20万円となっている。
**********
フォトサービスの誕生はデザイナーとしても選択肢が増えるから歓迎したいが、ストックフォトサービスはすでに多くのサービスがしのぎを削っている。後発のOADISがどれだけ食い込めるかは価格設定やサービス内容、品揃え、なにより画像の品質次第だが、ウェブサイトをざっくりと見た限りではこれといった新鮮味がなく、かんじんの画像品質の面でも、私の関心を引く画像はみあたらなかった。作家性の強いごく一部の写真以外は、総じて平凡な印象を受けた。これではクリエーター相手の商売は難しい気がする。アーテファクトリーのアーカイブ画像は資料としての需要はあるだろうし、3000円の画像も売れるかもしれないが、クリエーターが求めるイメージ画像はどうかな。今後の追加に期待というところか。
それにしても3000円〜20万円という価格の幅はすごいなあ。
個人ウェブサイト用途で、低解像度(72dpi)画像だと3000円になるのだろうか。
2007.05.27
なぜ「ゆるいデザイン」なのか
DTPになってから、妙に洗練されたデザインが多くなった。今や誰が作ってもそれなりに小じゃれたデザインができるようになったせいだろう。もはやこの手のデザインではどんぐりの背比べにしかならない。このままでは作業効率とデザイン料を競うだけのラットレースがさらに激化することになるだろう。
もっともこうした事情はデザインに限らないようだ。将棋の羽生善治氏の「高速道路と大渋滞論」によると、デザイン業界の変化は、IT時代の変化という大河の激流の中の一支流にすぎないことがわかる。
羽生氏は『ウェブ進化論』の梅田望夫氏との対談の中で次のように語っている。
(将棋学習者は)インターネットの普及で、昔と比べて圧倒的に速いスピードで、かなりのレベルまで強くなることができるようになった。それは信号のない高速道路をいっきに突っ走るようなものだ。しかし一定の距離まで行ったところでそれ以上進めず渋滞を起こしてしまう。あとからも次々と追いついて来るからそこで大渋滞になる。だが、この大渋滞から抜け出すとなると、それまでの学習の延長では相当難しい。
これが羽生氏の言う、学習の「高速道路と大渋滞論」の要旨である。
DTPと将棋学習では少し事情が異なるが、基本的には同じようなものだ。小綺麗で洗練されたデザインが「大渋滞」を起こしているわけである。さて、それではこの大渋滞から抜け出すにはどうすればいいか。DTPが渋滞を起こした原因であるならば、DTPソフトのアーキテクチャーから逃れることが渋滞から抜け出す突破口になるのだろうか。
この数年、「ゆるい」デザインが目立つようになってきたのは、たぶんこの「大渋滞」と関係しているのだろう。服部一成氏が『アイデア』誌で語っていたように、「どこか1cmくらいずれていても、ちょっとくらい文字が曲がっていても揺るがないくらいの骨太な強さ、良さをがっちり捉まえている。あとはどっちでもいい」ようなデザイン・コンセプトこそDTPソフトのグリットの呪縛からの逃走を可能にするコンセプトであり、結果的にゆるいデザインへと結実するのだろうか。
また、1980年代に流行った「へたうまイラスト」を求めた人たちの心理と、2007年の今、ゆるいデザインを好む人たちの心理は同根なのか別物なのか。私のゆるい頭ではよくわからない。どちらにせよ、デザインの好みも時代につれて変わる。その変わりゆく時代に向き合わないデザイナーは時代に取り残されることになるのかもしれない。
「取り残されたって平気だ!(俺は俺の道を行く!)」
正直なところ、そう叫びたい衝動がないわけではない。しかし、それを口にできるのは希代の天才か、屋根裏部屋の芸術家だけだろう。
その「ゆるいデザイン」もすでに飽きられてきているような気がしないでもない。まったく、めまぐるしいことだ。
もっともこうした事情はデザインに限らないようだ。将棋の羽生善治氏の「高速道路と大渋滞論」によると、デザイン業界の変化は、IT時代の変化という大河の激流の中の一支流にすぎないことがわかる。
羽生氏は『ウェブ進化論』の梅田望夫氏との対談の中で次のように語っている。
(将棋学習者は)インターネットの普及で、昔と比べて圧倒的に速いスピードで、かなりのレベルまで強くなることができるようになった。それは信号のない高速道路をいっきに突っ走るようなものだ。しかし一定の距離まで行ったところでそれ以上進めず渋滞を起こしてしまう。あとからも次々と追いついて来るからそこで大渋滞になる。だが、この大渋滞から抜け出すとなると、それまでの学習の延長では相当難しい。
これが羽生氏の言う、学習の「高速道路と大渋滞論」の要旨である。
DTPと将棋学習では少し事情が異なるが、基本的には同じようなものだ。小綺麗で洗練されたデザインが「大渋滞」を起こしているわけである。さて、それではこの大渋滞から抜け出すにはどうすればいいか。DTPが渋滞を起こした原因であるならば、DTPソフトのアーキテクチャーから逃れることが渋滞から抜け出す突破口になるのだろうか。
この数年、「ゆるい」デザインが目立つようになってきたのは、たぶんこの「大渋滞」と関係しているのだろう。服部一成氏が『アイデア』誌で語っていたように、「どこか1cmくらいずれていても、ちょっとくらい文字が曲がっていても揺るがないくらいの骨太な強さ、良さをがっちり捉まえている。あとはどっちでもいい」ようなデザイン・コンセプトこそDTPソフトのグリットの呪縛からの逃走を可能にするコンセプトであり、結果的にゆるいデザインへと結実するのだろうか。
また、1980年代に流行った「へたうまイラスト」を求めた人たちの心理と、2007年の今、ゆるいデザインを好む人たちの心理は同根なのか別物なのか。私のゆるい頭ではよくわからない。どちらにせよ、デザインの好みも時代につれて変わる。その変わりゆく時代に向き合わないデザイナーは時代に取り残されることになるのかもしれない。
「取り残されたって平気だ!(俺は俺の道を行く!)」
正直なところ、そう叫びたい衝動がないわけではない。しかし、それを口にできるのは希代の天才か、屋根裏部屋の芸術家だけだろう。
その「ゆるいデザイン」もすでに飽きられてきているような気がしないでもない。まったく、めまぐるしいことだ。
2007.05.26
大日本印刷「SPINCY」(スピンシー)
大日本印刷は、今年4月12日付のニュースリリースで「SPINCY」(スピンシー)の開発を発表した。
SPINCYとは大日本印刷のCTS(専用大型コンピュータによる自動組版システム)とAdobeのDTPソフトInDesignを連携させた新型自動組版システムの名称である。
SPINCYは、InDesignで作成したレイアウトに、文字・写真データを流し込むだけで自動的に配置できる組版機能を備えている。コンテンツはXML形式で作成し、データベースで一元管理する。XMLはコンテンツとレイアウト・デザインを分離できるので、データベースから抽出したXMLコンテンツから、印刷データばかりでなく、ウェブや携帯電話、DVDなど電子メディアへのデータ変換ができる。ワンソース・マルチユース展開が可能なのである。また、データ変換作業の80%は自動化されているという。
要は、いっそうの自動化と効率化(つまりコストダウン)を実現した新型CTSが誕生したわけである。不況業種に指定された経験をもち、今なお苦しんでいる印刷業界はさらなる合理化が必要とされているのだろう。SPINCYもそうした苦境を打破する目的で登場してきたのかも知れない。業界の一方の雄である凸版印刷も、独自の次世代DTPシステムを昨年8月から稼働している。凸版の新型システムは名称がついていないが、やはりAdobe InDesignと連携しており、システムとしての機能は大枠でSPINCYと同様である。
好況・不況にかにかかわらず、デジタル機器の進化を止めることはできない。新しいものほど、より便利で安くなるのがデジタル機器の特徴だ。しかし一方で、こうした新型システムの導入は、否応なくリストラにより職を失う人間が増えることを意味する。個人の失職というより、ひとつの職能の衰退を招く。すでに電算写植、フィルム製版は事実上消滅した。印刷現場から熟練職人の姿が消え、印刷所は単なる「刷り屋」となってしまった感がある。
私のようなグラフィックデザイナーにとっても、DTPの普及とともにデザインのコモディティ化の大波が押し寄せ、プロとして生き残る道は狭くなってきている。
冷徹な大変革時代の渦中にいることを痛感する。
SPINCYとは大日本印刷のCTS(専用大型コンピュータによる自動組版システム)とAdobeのDTPソフトInDesignを連携させた新型自動組版システムの名称である。
SPINCYは、InDesignで作成したレイアウトに、文字・写真データを流し込むだけで自動的に配置できる組版機能を備えている。コンテンツはXML形式で作成し、データベースで一元管理する。XMLはコンテンツとレイアウト・デザインを分離できるので、データベースから抽出したXMLコンテンツから、印刷データばかりでなく、ウェブや携帯電話、DVDなど電子メディアへのデータ変換ができる。ワンソース・マルチユース展開が可能なのである。また、データ変換作業の80%は自動化されているという。
要は、いっそうの自動化と効率化(つまりコストダウン)を実現した新型CTSが誕生したわけである。不況業種に指定された経験をもち、今なお苦しんでいる印刷業界はさらなる合理化が必要とされているのだろう。SPINCYもそうした苦境を打破する目的で登場してきたのかも知れない。業界の一方の雄である凸版印刷も、独自の次世代DTPシステムを昨年8月から稼働している。凸版の新型システムは名称がついていないが、やはりAdobe InDesignと連携しており、システムとしての機能は大枠でSPINCYと同様である。
好況・不況にかにかかわらず、デジタル機器の進化を止めることはできない。新しいものほど、より便利で安くなるのがデジタル機器の特徴だ。しかし一方で、こうした新型システムの導入は、否応なくリストラにより職を失う人間が増えることを意味する。個人の失職というより、ひとつの職能の衰退を招く。すでに電算写植、フィルム製版は事実上消滅した。印刷現場から熟練職人の姿が消え、印刷所は単なる「刷り屋」となってしまった感がある。
私のようなグラフィックデザイナーにとっても、DTPの普及とともにデザインのコモディティ化の大波が押し寄せ、プロとして生き残る道は狭くなってきている。
冷徹な大変革時代の渦中にいることを痛感する。
2007.05.25
Long Goodby QuarkXPress

今から6年ほど前の2001年1月、発売日を待ちかねるようにして秋葉原でInDesignを購入した。
この頃はまだDTPに関する知識が乏しくて、毎日のように発生するOSをめぐるトラブルや、知識不足から生じた不必要な出費など、今思い出しても暗くなる思い出が少なくない。
InDesignが発売されるまで、DTPレイアウト・ソフトは事実上QuarkXPressが唯一の選択肢だった。周囲の仲間もみんなQuarkを使っていたから、InDesignの使用方法を相談することなどできそうになかった。そんな状況下でなぜInDesignを選んだのか、今となってはよく思い出せない。価格が安いこともあったと思うが、たぶん日本語組版機能が充実している(という情報)が決め手になったと思う。
初めて使うInDesignは動作が重いことを別にすれば、これといって大きな問題もなく使えた。バージョン2になってからは起動も動作も速くなって、使い勝手がぐんと増した。それでも長い期間InDesignユーザーは孤独を余儀なくされた。
「インデザインなんですが…いいですか?」
と、いつも肩身の狭い思いをした。
しかし、それも今は昔、実感はないが、InDesignがQuarkのかっての座を奪ってしまったという話も耳にする昨今だ。
QuarkXPressはどうなったんだろう?
InDesignを使うようになった2001年以降、Quarkにはずっと関心を失っていたが、どういうわけか急に気になったのでウェブで情報を探してみた。
Quarkはバージョンが6.5になっていた。6年間もごぶさたしてたから、6.5になっていてもなんら不思議はないが、驚いたのはその価格だ。な、なんと8万円! バージョンアップ料金かと思ったが、そちらは2万円になっていた。バージョンが5になった時のパッケージ版価格が確か40万円ほどしたと記憶しているが、思い違いだろうか。当時のバージョンアップ料金も非常に高くて、デザイナーの顰蹙をかっていたはずだ。今ではそれが8万円! Mac OS Xへの対応の遅れから勢力が衰え始めたという噂は聞いていたが、さすがにこの極端な暴落ぶりには驚かされた。今も4.1が6.5と一緒に併売されているのもQuarkの苦境ぶりを無言のうちに物語っているように思える。
すっかりInDesignの時代になってしまっていたんだね。
QuarkXpressの想像以上の零落ぶりには驚いたが、一方で、「奢れるものは久しからず」という言葉が頭をかすめたのも正直なところだ。ユーザーをなめてかかっていた節があったからねQuarkは。大幅値下げでシェアを少しは回復したのだろうか。フリーランスで仕事をしているから業界全体の動向がいまいちわからない。
InDesignの独走になったら、こんどはInDesinがQuarkと同じ徹をふまないとも限らない。発売間もないPhotoshopCS3を見ていると、ライバルをもたないソフトがどうなるかの見本を見ている気がする。InDesignのライバルとしてQuarkに復活してもらいたいと思うが、凸版印刷や大日本印刷が自社のCTSにInDesignを採用してしまった現状では、もはや日本でのQuarkの復活は望めないだろうね。
個人的にはとっくにさよならをすましているが、改めて、
Long goodby、QuarkXPress。
2007.05.23
ゴミ捨て場に赤ちゃんを投げ捨て
渋谷のコインロッカーに赤ん坊が捨てられたニュースに驚いたのはもう20年以上昔のことになりますか。
2年前には、タクシーに生後1週間の赤ちゃんを置き去りにした女性客がいた。運用が開始されたばかりの「赤ちゃんポスト」の是非論は世論を二分している。
そして、こんどはゴミ捨て場に赤ん坊を投げ捨て! まだへその緒がついた生後4〜5日の乳児だという。たぶん捨てた人間も恵まれない境遇にあると想像するが、それにしても捨てる場所があるだろう。ゴミとして処理されればよかったと考えたとしたらあまりにも無惨だ。大げさな言い方はしたくないが、人心の荒廃ここに極まれりの感がする。呆然として言葉を失う。
うーむ、本当にこの国はどうなってしまったんだろう。
*追記(2007-06-07)
こんどは、高校生が学校のトイレで出産した。洋式トイレの水たまりに産み落としたという。赤ちゃんは死亡。
2年前には、タクシーに生後1週間の赤ちゃんを置き去りにした女性客がいた。運用が開始されたばかりの「赤ちゃんポスト」の是非論は世論を二分している。
そして、こんどはゴミ捨て場に赤ん坊を投げ捨て! まだへその緒がついた生後4〜5日の乳児だという。たぶん捨てた人間も恵まれない境遇にあると想像するが、それにしても捨てる場所があるだろう。ゴミとして処理されればよかったと考えたとしたらあまりにも無惨だ。大げさな言い方はしたくないが、人心の荒廃ここに極まれりの感がする。呆然として言葉を失う。
うーむ、本当にこの国はどうなってしまったんだろう。
*追記(2007-06-07)
こんどは、高校生が学校のトイレで出産した。洋式トイレの水たまりに産み落としたという。赤ちゃんは死亡。
2007.05.22
検索エンジンは素晴らしい
ある人名がどうしても思い出せない。
「地位が上がるとそれまで有能だっ人が無能になる」とか、「捨てると必要になる」といった、かなり皮肉の強い「法則」を書いた人だと記憶していた。そこで「捨てると必要になる」で検索してみたら、すごい数がヒットした。どうやら「捨てると必要になる」と感じている人が世の中に沢山いることがわかった。検索結果をたどってゆくと「マーフィの法則」という文字が目に止まった。このマーフィこそ思い出そうとしていた人名だった。
ネット検索は本当に素晴らしい。もはやこれなしでは何もできない。
ついでにマーフィの法則を少し…。
「絶好のチャンスは最悪のタイミングでやってくる」
「探し物は必ず最後に探す場所で見つかる」
「複雑な解答には必ず簡単な説明がつく。」
「地位が上がるとそれまで有能だっ人が無能になる」とか、「捨てると必要になる」といった、かなり皮肉の強い「法則」を書いた人だと記憶していた。そこで「捨てると必要になる」で検索してみたら、すごい数がヒットした。どうやら「捨てると必要になる」と感じている人が世の中に沢山いることがわかった。検索結果をたどってゆくと「マーフィの法則」という文字が目に止まった。このマーフィこそ思い出そうとしていた人名だった。
ネット検索は本当に素晴らしい。もはやこれなしでは何もできない。
ついでにマーフィの法則を少し…。
「絶好のチャンスは最悪のタイミングでやってくる」
「探し物は必ず最後に探す場所で見つかる」
「複雑な解答には必ず簡単な説明がつく。」
2007.05.20
装丁と認知的不協和の関係
フェスティンガーの「認知的不協和」という心理学用語がある。
自分が抱いている考えに反する情報に出会ったときに感じる心理的緊張状態を指す。
例えば、喫煙者に、「喫煙は肺ガンの原因になる」といった情報がもたらされた場合に引き起こされる心理的緊張が認知的不協和だ。
こうした時に、喫煙者がとる態度をフェスティンガーは3分類した。
1 自分に都合の悪い情報の価値を下げる。
例:全員が肺ガンになるわけじゃない。長年の喫煙者の中にも長生きした人がいる。
2 都合のいい情報を他に求める。
例:喫煙は仕事が一段落したときにリラックスするのにいい。仕事にリラックスとメリハリは大事だ。喫煙は長い伝統をもつひとつの文化だ。
3 緊張状態を解消する。
例:喫煙を止める。
喫煙習慣を止める3番が最も苦痛をともなうので、たいていは1番か2番を取りいれる。つまり人はそれとなく情報操作して、自分の考えを正当化しようとするのである。これがフェスティンガーが言いたかったことだと思う。
この認知的不協和理論をわたしの生業であるブックデザインに援用すると以下のようになる。
事実:ブックデザインはギャラが安くてまったく儲からない。
1 しかし、ブックデザインは一流の装丁家も同様に安いから、自分だけじゃない。
(都合の悪い情報の価値を下げる)
2 しかし、広告と違って作品が永く残るし、それほど商業主義的なデザインを押しつけられないですむ。
(肯定できる情報を見つけてきて補償する)
3 確かに儲からないからもう辞める。あるいは、ギャラのアップを要求する
(緊張を解消する)
もちろん3番が最も困難である。
したがって、1番と2番の認知的不協和と闘い(ごまかし)、自己正当化する日々が今も続いているのである。
自分が抱いている考えに反する情報に出会ったときに感じる心理的緊張状態を指す。
例えば、喫煙者に、「喫煙は肺ガンの原因になる」といった情報がもたらされた場合に引き起こされる心理的緊張が認知的不協和だ。
こうした時に、喫煙者がとる態度をフェスティンガーは3分類した。
1 自分に都合の悪い情報の価値を下げる。
例:全員が肺ガンになるわけじゃない。長年の喫煙者の中にも長生きした人がいる。
2 都合のいい情報を他に求める。
例:喫煙は仕事が一段落したときにリラックスするのにいい。仕事にリラックスとメリハリは大事だ。喫煙は長い伝統をもつひとつの文化だ。
3 緊張状態を解消する。
例:喫煙を止める。
喫煙習慣を止める3番が最も苦痛をともなうので、たいていは1番か2番を取りいれる。つまり人はそれとなく情報操作して、自分の考えを正当化しようとするのである。これがフェスティンガーが言いたかったことだと思う。
この認知的不協和理論をわたしの生業であるブックデザインに援用すると以下のようになる。
事実:ブックデザインはギャラが安くてまったく儲からない。
1 しかし、ブックデザインは一流の装丁家も同様に安いから、自分だけじゃない。
(都合の悪い情報の価値を下げる)
2 しかし、広告と違って作品が永く残るし、それほど商業主義的なデザインを押しつけられないですむ。
(肯定できる情報を見つけてきて補償する)
3 確かに儲からないからもう辞める。あるいは、ギャラのアップを要求する
(緊張を解消する)
もちろん3番が最も困難である。
したがって、1番と2番の認知的不協和と闘い(ごまかし)、自己正当化する日々が今も続いているのである。
2007.05.16
千の風になって

昔から札付きの天の邪鬼で、へそ曲がりで、その上皮肉屋だから、わたしだけの受け止め方なのかもしれない。
しかし断固としてこれは違うだろう!と言いたい。
近頃メディアが取り上げる「千の風になって」のことだ。
この「千の風 A THOUSAND WINDS」は、ジョン・ウェインによってハワード・ホークス監督の葬儀の席で弔辞として読まれたことは前から知っていた。悲しみに沈む故人の親族に捧げる弔辞としてふさわしい詩だと思っている。だから内容には何の文句もない。
ところが日本における昨今のこの詩のもてはやされかたといったらどうだ。
新井満氏が訳詞と曲をつけてCDにして、メディアに取り上げられてから話題になり、その後、オーケストラをバックにステージで朗読されたり、テノール歌手に腹の底から高らかに歌い上げられたり、あげくは、テレビ局が新聞に全面広告を掲載して「あなたの千の風体験」の募集までしてしまった。
募集内容はこうだ。
募集するのは「あなたの千の風体験」です。
「千の風になって」に癒されたという具体的なお話。ご自身の体験談や、身近な方々のエピソーも含まれます。ただし、周囲の方々の場合は関係者の同意を得てからご応募ください。(以下略)
この「千の風体験」を元に、ドキュメンタリー・ドラマ「千の風になって」を制作し、今夏TV放送する予定だそうだ。「千の風」感動の大キャンペーンである。さあ、みんなで癒されましょう。集まって皆さんで感動しましょう!
日本人の手にかかると「A THOUSAND WINDS」はこんな消費のされ方をしてしまうのか。違うだろう! おかしくないか。
この詩は、唄うにしてももっと個人的に唄い、個人的に朗読し、個人の心の中でひそやかに癒されるものではないのか。
この「千の風になって」が日本人が弔意あらわす際の詩として今後定着するのだろうか。今の人気ぶりを見ているとあるいは古典となる可能性はあるかもしれない。残された遺族がこの詩や歌で癒されるかもしれない。しかし、わたしは心の中でつぶやきはしても、唄うことも、口にだして朗読することも決してないだろう。恥ずかしいからだ。内容が恥ずかしいのではない。徒党を組んでのあられもない感動ごっこ、癒しごっこが恥ずかしいのだ。
私家版 『千の風』
私のお墓の前で泣かないでください
私はお墓の中にいません
私は千の風になりました
千の風になって
あの大きな空を吹き渡っています
でも、だからといって
商標登録なんかしないでください
大きなテノール声で高らかに唄わないでください
オーケストラをバックに朗読しないでください
ドキュメンタリー・ドラマにしないでください
せめて、静かに小さな声で語ってください
私は千の風になりました
千の風になったわたしは
心穏やかに
これからもあの大きな空を気持ちよく
吹き渡っていたいですから
YOU TUBE 「千の風になって」
2007.05.16
「赤ちゃんポスト」以前の問題
運営開始早々に三歳児が置き去りにされたことで「赤ちゃんポスト」の賛否をめぐる議論がブログでも熱を帯びています。
今回の三歳児の置き去りは親の保護者遺棄罪にはあたらないらしい。安全な場所に置いているので危険にさらしてはいないというのがその理由。なんだか釈然としないが法的にはそういう解釈になるようだ。
もっと年長の子どもや、寝たきりの老人が置き去りにされたり、犬や猫も捨てられるといった可能性に言及しているブログも散見される。たしかにそうしたケースも今となっては想定外とは言えなくなってきた。
昔なら、お寺や教会の前に捨てられただろうが、病院というのが現代社会を象徴しているような気がする。人は病院で生まれ、病院で死ぬ時代だから違和感がないのかもしれない。
子捨てを助長するとする反対派も、親の虐待から子どもの命を救うとする賛成派も、「赤ちゃんポスト」設置の是非について本当は決めかねて心が揺れているのが本心だと思う。わたしもこの問題について考えると落ち着かない気分になる。
もともと「赤ちゃんポスト」自体が、親の虐待、ネグレクト、責任感の欠如、命の軽視…といった社会問題への解決策の一助になればと、善意で設けられたものだから、「赤ちゃんポスト」の是非を巡って議論しても有効な解決策は期待できない。
「赤ちゃんポスト」に問題を絞れば議論がしやすいから盛り上がっている面があるのだろう。しかし、関心があるなら、本当は「赤ちゃんポスト」ではなく、親の価値観や人生観、親を取り巻く環境、親の教育などについて考えた方がいいのだろう。もっと大きな文脈で問題提起すべきだと思うが、それでは具体的にどうすればいいのかと考えると途方にくれる。問題が広範囲で大きすぎるからだ。
それにしても、自分で三歳だといい、父親につれてこられたと話しているこの子どもを思うとせつない。
いずれにしても、言えることは、病院はメディアに情報を与えないほうがいいし、メディアも「赤ちゃんポスト」の報道は差し控えるべきだろう。悩んでいる人がまず相談できるように電話でのホットラインがあるといいと思う。
この三歳児遺棄事件(あえて事件という)に続いて、ショッキングなニュース(寝ている母親を刃物で刺して、首を切断した高校三年生の殺人事件)を聞いたばかりのせいもあって、あまり大仰なことはいいたくないが、なんだか、日本社会ににわずかながらも伝統的に残っていた大切なものが次々と壊れてきているような不安を感じる。これまで当然として信じてきたものが土台から崩れてしまうような不安だ。
ポストモダン論者が指摘するように、この先ますます隣人不信が増幅され、コミュニケーションが断たれた監視社会になってゆくのでしょうか。
今回の三歳児の置き去りは親の保護者遺棄罪にはあたらないらしい。安全な場所に置いているので危険にさらしてはいないというのがその理由。なんだか釈然としないが法的にはそういう解釈になるようだ。
もっと年長の子どもや、寝たきりの老人が置き去りにされたり、犬や猫も捨てられるといった可能性に言及しているブログも散見される。たしかにそうしたケースも今となっては想定外とは言えなくなってきた。
昔なら、お寺や教会の前に捨てられただろうが、病院というのが現代社会を象徴しているような気がする。人は病院で生まれ、病院で死ぬ時代だから違和感がないのかもしれない。
子捨てを助長するとする反対派も、親の虐待から子どもの命を救うとする賛成派も、「赤ちゃんポスト」設置の是非について本当は決めかねて心が揺れているのが本心だと思う。わたしもこの問題について考えると落ち着かない気分になる。
もともと「赤ちゃんポスト」自体が、親の虐待、ネグレクト、責任感の欠如、命の軽視…といった社会問題への解決策の一助になればと、善意で設けられたものだから、「赤ちゃんポスト」の是非を巡って議論しても有効な解決策は期待できない。
「赤ちゃんポスト」に問題を絞れば議論がしやすいから盛り上がっている面があるのだろう。しかし、関心があるなら、本当は「赤ちゃんポスト」ではなく、親の価値観や人生観、親を取り巻く環境、親の教育などについて考えた方がいいのだろう。もっと大きな文脈で問題提起すべきだと思うが、それでは具体的にどうすればいいのかと考えると途方にくれる。問題が広範囲で大きすぎるからだ。
それにしても、自分で三歳だといい、父親につれてこられたと話しているこの子どもを思うとせつない。
いずれにしても、言えることは、病院はメディアに情報を与えないほうがいいし、メディアも「赤ちゃんポスト」の報道は差し控えるべきだろう。悩んでいる人がまず相談できるように電話でのホットラインがあるといいと思う。
この三歳児遺棄事件(あえて事件という)に続いて、ショッキングなニュース(寝ている母親を刃物で刺して、首を切断した高校三年生の殺人事件)を聞いたばかりのせいもあって、あまり大仰なことはいいたくないが、なんだか、日本社会ににわずかながらも伝統的に残っていた大切なものが次々と壊れてきているような不安を感じる。これまで当然として信じてきたものが土台から崩れてしまうような不安だ。
ポストモダン論者が指摘するように、この先ますます隣人不信が増幅され、コミュニケーションが断たれた監視社会になってゆくのでしょうか。
2007.05.15
レスビアンとゲイ
赤ちゃんポスト(こうのとりのゆりかご)運用初日に、3〜4歳の男児が置き去りにされたニュースには意表をつかれました。てっきり、赤ちゃんポストに置かれるのは新生児だとばかり思いこんでいましたから。関係者はどれだけこのケースを想定していたんでしょうね。犯罪がらみの置き去りの可能性まで考えると、かなり難しい問題を抱えこむことになりますねこの赤ちゃんポストは。
また、メディアの「預けられた」という表現が気になります。あくまで、捨てられた、あるいは置き去りにされたのであって、預けたという表現は不適切だと思います。
●
民主党は、レスビアンであることをカミングアウトしていた尾辻かな子氏を夏の参院選比例区で公認することを決定した。
民主党がレスビアンを認めたことは、LGBTIQ(※注1)を認めることを意味するのか。いや、もっとはっきり言おう。民主党はゲイも認めると受け止めていいのか。小沢一郎や菅直人、鳩山由紀夫がホモセクシャルだったとしても問題無しということなのか。
民主党に限らず政党は圧倒的な男社会だ。したがって今回の公認も、男がレスビアン候補者の公認を認めたという構図にならざるを得ない。しかし、レスビアンは男にとっては身近な問題だとは考えにくい。遠くの出来事には共感できるが、近くだと反対する、あるいは総論賛成、各論反対といった態度はわれわれになじみ深いものだが、セクシュアリティ(性的指向)に関するテーマは特に本音が隠されやすいので、疑ってかかった方がいい。
レスビアンやゲイ、性同一性障害を自分の同僚あるいは友人・家族がカミングアウトしたときにどう感じるかが問題だ。個人的・直接的な経験を通してしか本人にも自分の本音は確信できないと思う。
民主党は今回の公認でセクシュアリティ(性的指向)を個人の人格の一部として認めたのか。夏の参院選挙での新しい票田を掘り起こすためのとりあえずの都合ではないと胸を張れるか。
(※注1)
レスビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、インターセックス、クィアなど、セクシャルマイノリティ全体。
※追記
嗜好→指向に訂正。
とおりすがりさん、どーもです。
また、メディアの「預けられた」という表現が気になります。あくまで、捨てられた、あるいは置き去りにされたのであって、預けたという表現は不適切だと思います。
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民主党は、レスビアンであることをカミングアウトしていた尾辻かな子氏を夏の参院選比例区で公認することを決定した。
民主党がレスビアンを認めたことは、LGBTIQ(※注1)を認めることを意味するのか。いや、もっとはっきり言おう。民主党はゲイも認めると受け止めていいのか。小沢一郎や菅直人、鳩山由紀夫がホモセクシャルだったとしても問題無しということなのか。
民主党に限らず政党は圧倒的な男社会だ。したがって今回の公認も、男がレスビアン候補者の公認を認めたという構図にならざるを得ない。しかし、レスビアンは男にとっては身近な問題だとは考えにくい。遠くの出来事には共感できるが、近くだと反対する、あるいは総論賛成、各論反対といった態度はわれわれになじみ深いものだが、セクシュアリティ(性的指向)に関するテーマは特に本音が隠されやすいので、疑ってかかった方がいい。
レスビアンやゲイ、性同一性障害を自分の同僚あるいは友人・家族がカミングアウトしたときにどう感じるかが問題だ。個人的・直接的な経験を通してしか本人にも自分の本音は確信できないと思う。
民主党は今回の公認でセクシュアリティ(性的指向)を個人の人格の一部として認めたのか。夏の参院選挙での新しい票田を掘り起こすためのとりあえずの都合ではないと胸を張れるか。
(※注1)
レスビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、インターセックス、クィアなど、セクシャルマイノリティ全体。
※追記
嗜好→指向に訂正。
とおりすがりさん、どーもです。
2007.05.13
「帯汚し」について

リニューアルされた講談社現代新書についてはすでに書いたし、ウェブでも圧倒的に批判の方が多いので、これ以上は繰り返さない。ここでは帯について話したい。各社の新書の「帯汚し」には目に余るものがあるからだ。
「帯汚し」とは私の造語であり、定義は以下のとおりである。
【帯汚し】
【帯汚し】
カバーデザインはそれなりのバランスや本らしい品の良さが求められる。しかし、帯はどうせ買ったあとはずすものだし、広告スペースだから、帯では思い切ったことが許される。デザインセンスなどとは無縁の好き勝手をやっても帯ならかまわない……とする考え。また、その考えが生み出した醜悪きわまりない帯のこと。
実際、新書の帯はデザインの無法地帯と化している。
この時期なら、「春のフレッシュマンフェア」とか「新社会人必携!」などという文字がスーバーのちらしも裸足で逃げ出すような下品でばかでかい文字で印刷されて巻き付けられている。帯の幅も拡大サイズになっているから醜悪さもいっそう増している。本のテーマに関係ない帯なので、言葉がそもそも意味を失っている。相乗効果で目立てばいい、との考えだけで作られた帯であり、歩道橋にとりつけられた春の交通安全週間の横断幕のようなものでしかない。
もし、書店の帯が濡れていたらそれは私の涙だと思って欲しい。
なかでもひどいのが、またもや講談社現代新書である。上の例のような「キャンペーン帯」ならすぐまた外されるだろうからまだましだともいえる。しかし、講談社現代新書のこの帯(画像)は通常の帯である。
タイトルより大きな文字が中央まで飛び出してきて、デザインの核であるはずの■図形を堂々と汚している。もはやバランスもなにもあったものではない。これではカバーでなく全体が帯である。これを見たときは唖然とした。
現代新書のデザインは世間から酷評されてしまったわけだが、編集部もデザインを守る意志が皆無のようだ。まさかデザイナーがこの帯のデザインを考えたわけではあるまい。私が思うに、現代新書編集部はこのデザインをすでに見捨てたのではないか。近々、新しいデザインがお目見えするような気がする。
2007.05.13
ネットと書籍の棲み分け

さきほどアマゾンで本を注文したら、一時間もしないうちに発送完了のメールが届いた。日曜日の午前中なのに、これはすごい。
ネットで調べものをしていて、サイトが興味ある書籍に言及していると、すぐアマゾンにジャンプしてチェックする癖がついてしまった。直接アマゾンにリンクしている親切(?)なサイトも多いので、この傾向は高まるばかりだ。あとでぎょっとするほど多くの本を注文していることに気づき、クレジットカードの支払いが心配になったりする。
ネットの普及が出版不況に拍車をかけるのではと心配されたのはほんの数年前だが、すぐそれは杞憂であることがわかった。わたしの場合はネットを利用するようになって逆に書籍の購入が以前より増えた。もともとの読書量が少ないので増えたといってもたいしたことはないが、同じ経験を持つ人も少なくないと思う。
この先もネットと書籍は棲み分けが可能だと思っている。
2007.05.10
ポスター化する装丁デザイン

駅前に張られる広告ポスターに「飽きの来ないデザイン」が要求されることはない。求められるのは、通りすがりの人間にも認知されるような刺激の強さである。一瞬のうちに見てもらわないといけないポスターに刺激の強さは必要な条件だ。したがって広告ポスターは新奇さを狙ったデザインが主流になる。
こうした広告ポスターと同じ考えで制作されている装丁が増えてきたような気がする。先日取り上げた文藝春秋の「はじめての文学シリーズ」の装丁は私に言わせてもらうと「ポスター」である。書籍だって商品だから、書店で目立つ方がいいに決まっている。そもそも目にとまらないと始まらないから、出版不況が続いている現況で少しでも目立つ装丁を求める編集者の気持ちも理解できる。しかし書店に来る客は街の通りすがりの人間ではない。本を求めてやって来ている人間に広告ポスターもどきの強い刺激は必要ないだろう。一過性の目立つことだけを優先させたデザインは装丁にはふさわしくない。このことはデザイナーにはもちろん、編集者にも強く言いたい。編集者の要請が装丁のポスター化を助長している面があると思うからだ。
しかし、本当は装丁デザイン以前の問題かもしれない。
広告のような一過性の強い安易な本が増えていることこそが真の問題だといったら言い過ぎか。言い過ぎだね。
2007.05.08
共に歳をとる本

私の住んでいる町の駅近くに小さな書店がある。
その本屋の奥の書棚に私が装丁した本が置かれている。ベスト・セラーになるはずもない地味な本なので初刷のままだ。すでに長いこと店晒しになっていて、古本屋に売ることもできないくらい古びてしまっている。もはや新刊とはおせじにもいえない。書籍は通常、委託販売制度を導入しており、売れない本は容赦なく返品されるからこんな状態にはならないはずだが、この本は書店に買い取られたようだ。やつれた姿がしのびなくて、書店で見かけるたびにいっそのこと自分で買おうかと思ったりもした。
私がこの本を装丁したのはおよそ11年前も昔である。
11年という歳月は短くない。初老の装丁家(私のこと)にもさまざまな出来事があった。その間、私の装丁したこの本は小さな本屋さんの棚の片隅で古びつつもじっと静かに存在していたのだ。私と共にここで歳を重ねていたのだ。そう思うとある感慨を覚えた。
ひょっとすると、私が死んだ後も、この本は買い手がいつの日か現れるまでここにあり続けているのかもしれない。もし、運良く買われたらこんどは読者の本棚でやはり存在し続けることだろう。
ならば、もっと良い仕事をしなければ本に申し訳ない、と柄にもなく殊勝なことを考えたりするのである。
2007.05.04
脱力する講談社現代新書の装丁

講談社現代新書
リニューアルされた講談社現代新書を見るたびに脱力する。
先日、ベテラン編集者との打ち合の際に話題に上り、杉浦康平氏が嘆いていると聞いた。長く親しまれてきた杉浦氏のデザインがこんな形に変わるとはね。コスト問題が一番の理由だと思うが、これでは明治の歴史建造物を取り壊し、安普請の集合住宅に建てかえたようなものだ。杉浦氏でなくとも泣きたくなる。

「はじめての文学シリーズ」文芸春秋
「講談社現代新書」と違って、デザイナーのセンスを感じるし、制作意図も理解できる。しかしこんな装丁をしてはいけないと思う。これは広告の手法である。それでは、なぜ広告の手法で装丁をしてはいけないか。話が長くなるから、ここではとりあえず、広告は商品から離れても成立するが、装丁は本の一部だからだ、とだけ言っておきたい。カバーは表紙に巻き付けられてはいるが、このデザインは本から遠く離れている。
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