現代新書についてはこれまで何度か書いてきた。

「脱力する講談社現代新書の装丁」
「〈帯汚し〉について 」
「講談社現代新書2」

これまでの批評が的を得ていたかどうかは別にして、私はまじめに書いてきたつもりだ。しかしここに至って、この現代新書の装丁には本当に脱力してしまった。まともに取り上げて批評する気力を失いそうだ。しかし、ここまで書いてきた手前、気を取り直してなんとか始末をつけておきたい。

論より証拠、というわけで、まず下の画像を見てもらいたいOBIYOGOSHI.jpg

どれもタイトルのすぐ下まで幅広の帯で覆われている。カバーデザインの四角形(これも帯に印刷されている)が帯のテキストによって台無しにされている。カバーデザインをないがしろにするこうした帯を以前「帯汚し」と名付けて記事にした。
その際、帯汚しの定義もしておいた。

【帯汚し】
カバーデザインはそれなりのバランスや本らしい品の良さが求められる。しかし、帯はどうせ買ったあとはずすものだし、広告スペースだから、帯では思い切ったことが許される。デザインセンスなどとは無縁の好き勝手をやっても帯ならかまわない……とする考え、ないし、その考えが生み出した醜悪きわまりない帯のこと。

このときは、編集部が「帯汚し」の犯人だとの予断で書いた。まさか、デザイナーがこんなひどい帯をデザインするわけがないと思いこんでいたからだ。しかし、実際はデザイナーが作った帯だったのだ。よく考えればわかることだった。せっかくの「新装丁」を編集部が独断でここまでやるはずがないと気づくべきであった。私自身が実作者なので思いもしなかったのだ。

帯のデザインが中島氏自身の手によるものだと私が考えた理由は中島氏の次の発言にある。

「各社の新書のデザインを見ていて、新書では、タイトルが目立つ必要はないと思いました。タイトルはもちろん大切ですが、やっぱり読者の注意をひきつける最大の武器は帯です。--中略-- 帯も積極的にデザインしようと。」
私には「帯汚し」と見えたひどい帯は実は中島氏の意図どおりの帯だったのだ。なるほど、「タイトルは重要でない」と考えない限り、帯のテキストのこのような侵略はあり得ない。

現代新書出版部部長の上田氏は、
「学術的な知識や一般教養を啓蒙書として提示するという、新書の本流に戻るべきだと考えてい」ると発言しているが、このデザインは教養書・啓蒙書にふさわしいだろうか。

次の帯のデザインを見ると、中島氏の考えている帯とカバーの関係がいっそう明白になるはずだ。


20070624083229.jpg

丸と四角。印象の異なる二冊だが、これは現代新書の同じ本である(『奪われる日本』)。四角の方はカバーで、丸の方は、タイトル以外はすべて帯である。タイトルの下まで延びた幅広の帯によってカバーデザインの四角が隠されているのだ。ここまで帯が侵略したらなんのためのカバーなのかと思うが、カバーについては中島氏はこう述べている。

「それで、もっともデザインのない、無意味な形としてどういうものがいいかな、と考えた時に正方形というカタチが浮かんできました。--中略-- 丸や三角は色によって意味が出てきますよね。丸だと日の丸がいい例です。やっぱり四角が一番無意味だと思います」。

画像をもう一度見てもらいたい。
確かに、意味のある丸は帯の方で表現されている。カバーデザインを意味のない四角にしたのは、どうせ帯や帯のテキストで隠されるからだったのだ。何のことはない、現代新書のカバーデザインは帯によって隠される(汚される)ことを前提に考えられていたのだ。意味の無いカバーなら帯で隠されても不都合は起きないというわけだ。自由に帯をつけやすいデザインこそ中島氏が目指したカバーだったのである。


GENDAI09.jpg

最後にもうひとつ画像を示しておく。これもタイトルから下はすべて帯で、モナリザの写真も帯に印刷されている。カバーの四角のデザインは完全に消滅している。帯のこうした扱いを中島氏は新書の新しいスタンダードにしたいらしい。
ああ、なんだかひどいブラックジョークを聞かされた気分である。


※「杉浦装丁」はコストがかかるためシンプルな中島デザインに変更されたのではないか、という一部の指摘は当たらない。
帯にイラストや写真が使われるのでコストは同じようにかかるからである。

講談社現代新書の「背」がすべて白地に変更された。それに伴い背のタイトル文字も黒に統一された。全部がそうなったわけではなく、新しく刊行されるものから順次切り替えて行く方針 のようだ。

gendai02.jpg

一冊一冊をすべて違った色にして棚に並べたら、背の色が(きれいな)グラデーションになる、というのが装丁を担当した中島英樹氏のアイデアだった。しかし、背の色が削除されたことで中島氏のそうしたもくろみは消滅したことになる。
そもそも、中島氏が意図した色のグラデーションは成功していたとは言えず、むしろ、無原則に混ざりあった不気味な色のかたまりになっていた。このままではダメだとの認識が編集部にもあって今回の手直しを決断したと思われる。

gendai03.jpg

無原則な配色の弊害を被っていたのが背のタイトル文字だった。これまで、背景の色が濃い場合は白抜き文字、明るい場合は黒文字になっていた。この色の混在が書店の棚でタイトルを読みにくしていた。だから、今回の見直しはよかったと思う。これで背の文字が格段に見やすくなった。

読者として今回の見直しを歓迎するが、しかし部分的な手直しだけではこのデザインを救うことはもはやできない。編集部も気づいているはずだが、このデザインは当初のコンセプトから大きく逸脱している。

中島氏は当初次のように発言していた。

『今回のデザインでも、全部が同じ色だったらただの四角ですが、全部違う色であるというところで、一冊一冊が完璧に違う音色になっていると思います。』

1冊づつ全て色を変えて色の変化を見せなければ「ただの四角」にすぎない装丁だと中島氏は言っている。私が逸脱していると言うのは、背の色によるグラデーション表現が不可能になったことばかりでなく、表紙の四角の色の見分けもつかなくなっているためである。赤にしても、青、黄色にしても、似通った同系色がたくさん使われてしまっていて書店での区別が困難な状態になっているのである。これは色による変化の表現がこれ以上できないことの現れである。その意味でこのデザインは逸脱、というより破綻している。
増える一方の新書を全て色で分けるという発想に初めから無理があったのではないか。文庫なら、作家別に色の固まりができるし、作家別の色分けは読者にとっても便利だから、文庫の場合は単なる装飾以上の機能があると言える。しかし、新書での色分けは装飾以上の意味をもたない。その装飾としての色に問題をかかえているのが現代新書である。

20070623201922.jpg

現代新書の刊行がこれで打ち止めになるならともかく、これからも新刊が追加されるのだから、現状のデザインはできるだけ早く白紙に戻した方がいいのではないか。背の文字とちがって、正方形の色で読者からクレームがつくことはないだろう。しかし、破綻したことがわかったデザインを使い続けても誰も幸せになれないだろう。メンツや責任、コスト問題などいろいろ事情はあるにしても、これ以上深手を負わないうちに思い切って全面的に見直した方がいいと思う。


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gendaihon.jpg

リニューアルされた現代新書はまず10冊が発売された。
気になるのは、デザイン決定の現場でデザイナーが何冊分のプレゼンテーションをしたかだ。
現代新書の総タイトルは1700冊以上もある。流通している分だけでも600冊程度だ。全ての色を変えようと決定したとき、これらの数は十分検討されたのだろうか。いったい何冊分の色見本が提出されたのか。100冊分か。あるいは50冊分か。
発売される10冊分だけで決めて、後は見切り発車したということはないのか。現在の混乱を招いた原因はデザイン決定の際に十分な数の色の検討が行われなかったからではないか。




上の2枚の画像は共に書籍カバーである。
左は今年3月に発売されて話題になった村上春樹・訳の『ロング・グッドバイ』(早川書房)で、右は1946年にアメリカで出版された古いミステリーのペーパーバックである。『ロング・グッドバイ』の原作は言わずと知れたあのレイモンド・チャンドラーで、原著は1953年に出版されている。村上訳は清水俊二の訳から数えて50年ぶりの新訳となる。

ご覧の通り二冊の装丁はそっくりである。いや、こういう場合そっくりという表現は適切ではない。同じと言うべきだろう。なにしろ、今回『ロング・グッドバイ』を装丁したデザイナーはこの古いペーパーバックの装丁を引用しているのだから同じで当然である。しかし、デザイナーによるとこれは引用ではなく「オマージュ」になるらしい。

オマージュとは何か。
ウェブ百科事典のウィキペディアによると、
「オマージュ(仏:hommage)は、リスペクト(尊敬)や敬意のこと。--中略-- 芸術や文学においては、尊敬する作家や作品に影響を受けて、似たような作品を創作する事」とある。
オマージュの有名な例としては、例えば黒澤明監督の『七人の侍』を翻案した『荒野の七人』(ジョン・スタージェス監督)を挙げることができるだろう。
余談だが、音楽業界では同様の意味で「トリビュート」という言葉が使われている。例えばマイルス・デイビスが亡くなった時、トリビュート・アルバムとして彼のヒット曲をカバーしたアルバムが発売された。有名アーティストが亡くなるとたいていトリビュート・アルバムが作られるので追悼の意味だと思っている向きもあるがそうではない。

さて、オマージュの意味はわかった。
この本の装丁はニューヨークの人気デザイナー・チップ・キッド(+ハヤカワデザイン)で、彼はオマージュとしてこの本をデザインしたと言っている。しかしこの装丁のどこがオマージュになるのか理解できない。そもそも彼は誰にオマージュを捧げたのか。当然レイモンド・チャンドラーのはずだが、キッド自身の発言があるのでまずそちらを聞いてみよう。

『レイモンド・チャンドラーの名作『ロング・グッドバイ』の装幀を手がけることは私にとって大変な名誉です。その翻訳が友人の村上春樹というのですからなおさらです。レイモンド・チャンドラー、村上春樹、そして古き良きミステリへのオマージュとして、私は1940年代のペイパーバック(Anything for a Quiet Life)の表紙を現代風にアレンジしてみました。時代の雰囲気をうまく伝えた力強い装幀になったと自負しています。』

チップ・キッドが『ロング・グッドバイ』の装丁に引用した1940年代のぺーパーバック『Anything for a Quiet Life』はチャンドラーの作品ではない。この装丁を引用することがなぜチャンドラーへのオマージュになるのだろう。この本とチャンドラーとの関連を強いて挙げるなら、チャンドラーが活躍した1940年代のミステリー小説であるくらいだ。たぶん、キッドは、当時のパルプ・マガジンやペーパーバックが持っていたチープで低俗な雰囲気を再現したかったのだと思う。しかし、キッドのこの装丁はオマージュと呼べるだろうか。彼はずいぶん欲張って、「チャンドラー、村上春樹、そして古き良きミステリへのオマージュとし」たと語っているが、古き良きミステリーへのオマージュはそれだけではチャンドラーへのオマージュにはならない。それでいいなら、マイルス・デイビスへのトリビュート・アルバムのカバー曲は古いジャズならなんでもいいことになってしまう。そうではなく、尊敬する作家個人に直接的な関係のある作品を捧げることがオマージュとしての必要条件ではないか。

20070621080747.jpgもっともオマージュ自体がグレーゾーンで使用されている不透明な概念である。昨年、有名な日本人画家が、イタリア画家の作品を盗用して話題になった。追いつめられたこの画家が苦し紛れに口にしたのがやはりオマージュだった。もし、ブックデザインにオマージュが許されるなら、私の仕事はずいぶんと楽になる。しかし、これはオマージュですね、素晴らしい!と言ってくれる編集者はまずいないだろう。
ウィキペディアのオマージュの説明には続きがあって、「昨今は斬新なアイディアの欠如などから、「オマージュ」と称して過去の作品に頼ったり、--中略-- しばしば著作権やモラルの問題」につながる、とある。
キッドのこの装丁にそうした問題はないか。


また、これはオマージュとは関係ないが、キッドの意図した古き良きミステリーの雰囲気はこの『ロンググッドバイ』では成功していないと思う。『ロング・グッドバイ』は600ページ近くもある分厚いハードカバーであり、紙も印刷もきれいだから、かってのパルプ・マガジンやペーパーバックでおなじみの装丁は似合わないのだ。ブランド物のスーツの上に作業着を着せたような違和感がある。せめてペーパーバック風の造本にしていればもっと違ったイメージに仕上がっていたかもしれない。もっとも、村上春樹へのオマージュということであれば、たしかに、このポップで軽いイメージはよく似合っていると思う。

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FAREWELL MY LOVERY
悲しき大鹿マロイの物語
実は私は怒っている。
私は古くからのチャンドラーファンであり、『長いお別れ』が特に好きなのである。ペーパーバックの原書『The Long Goodbye 』も持っている。現在のつまらない装丁ではなく昔の味があってかっこいい方のやつだ。そのチャンドラーの作品がこんなキッチュでポップな装丁にされてしまったことで頭にきているのだ。オマージュかおまんじゅうか知らないが、本当はそんなことはどっちでもいいのだ。チャンドラーの『The Long Goodbye』の日本語版がこんな装丁にされてしまったことが読者として残念なのである。




この画像は『芸術新潮』の見開きページである。ディック・ブルーナの作品が6点紹介されている。が、中央の2点は「ノド」に食われてよく見えない。無理に押し広げればもう少し見えてくるがそれでも中央の2点の絵がひどく見づらいことに変わりない。これは単にレイアウトの失敗作なのだろうか。そうではないと思う。少なくとも当のデザイナーはそうは考えていないはずだ。実はこうした「ノド食われ」レイアウトは他のグラビア雑誌でも決して珍しくない。どうやら、見開きページ中央の絵柄がノドに食われて見えなくなってもレイアウトの失敗だとは自覚されていないようなのだ。

なぜこのようなレイアウトがまかり通っているのだろう。絵がちゃんと見えるように、別のレイアウトができなかったのだろうか。デザイナーも編集者も雑誌ができあがった時点でこのページに眼を通したはずだ。いや、レイアウトの段階で、色校の段階で容易に結果は予想できたはずだ。これではまずいと感じなかったのだろうか。

いまだにこうしたレイアウトが後を絶たないのは、このままでも別にかまわないと考えているからだとしか思えない。そうだとしたら、その考えはどこから生まれてくるのだろう。もっと大事な何かのために写真/絵が犠牲にされているとしたら、そのもっと大事なものとはなにか。
ここからは私の想像だが、たぶんそれはレイアウト原理主義思想だろう。

まずかっこいいレイアウトありきで、内容(この場合はブルーナの絵)はレイアウトを引き立てるマテリアルとしての扱いしか受けていないのだ。編集者や読者もレイアウトの斬新さでデザイナーの仕事を評価しがちだから、デザイナーがレイアウトで自分の仕事をアピールしたい気持ちは分かる。しかし、レイアウトは内容を盛る容器である。内容を引き立てるのが容器の役割だ。ディック・ブルーナ特集号で、メイン・ディッシュであるべきブルーナの絵が容器のせいで粗末に扱われるようでは本末転倒ではないか。ディック・ブルーナへのリスペクトが多少でもあればこのようなレイアウトはそもそもできないはずだ。内容への無関心が生み出したレイアウトであると言えるだろう。

こうしたレイアウトが生じるもうひとつの原因は、「グリッド・システム」を効率本位で適用したためだろう。時間も予算も限られている雑誌デザインは、基本フォーマットをもとに、効率よくレイアウトせざるを得ないのが実情である。ある程度しかたのないことだが、しかし、すべてをグリット主義で押し通してしまうとこんな結果を生み出してしまう。見せ方のポイントになるところぐらいは手間をかけてでも調整すべきだろう。


                ●


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批判してばかりでもあれなので、今のレイアウトをベースにして「ノド食われレイアウト」を修正してみたのが上の画像である。これで6点の絵をすべて問題なく見ることができる。ブルーナの絵の大きさもほとんど同じだ。
レイアウトがつまらなくなったと感じる人がいるかも知れないが、ブルーナの絵を犠牲にしてでも守るべき価値がオリジナルのレイアウトにあるとは思えない。


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次に、こちらは”デザインのメイキングマガジン”『デザインノート』の見開きページである。

suigei03.jpg

そしてその本文文字部分を拡大した画像だ(実際の文字サイズはもっと小さい)。
長文の文章がすべて袋文字になっている。なぜ文字にこんな細工をしなければならないのか。これではとても読む気になれない。写真をトリミングするなり縮小するなりして文字のスペースを確保できなかったのだろうか。これもレイアウトのためには文字が犠牲になってもかまわないと考える、レイアウト原理主義的美意識が生み出した一例だと言えるだろう。
色校正の段階で編集者とデザイナーはこの文章を実際に読んでみたのだろうか。読んだ上で、これで問題無しと判断したのか。そうだとしたら本文文字に対する見識を疑われてもしかたないのではないか。

雑誌のアートディレクションで成功して有名アートディレクターが誕生するご時世である。デザイナーがビジュアルを前面に打ち出した個性的なレイアウトにしたい気持ちはもちろん理解できるし、それを全面的に否定するつもりもない。許される範囲を超えてデザインが暴走する危険性に警鐘をならしたいと思っているだけである。
ここで取り上げた例は、芸術やデザイン関係の雑誌だから、エッジの効いたレイアウトにするため絵や文字を犠牲にしても許されると考えたのかもしれない。実際、書籍をまるまる、造本・装丁のためのマテリアル扱いした高名なデザイナーの仕事が高く評価されている事実もあるぐらいだから、若いデザイナーがレイアウト本位のデザインに誘惑を感じるのもわからなくはない。しかし、あくまで絵は見えなくてはならないし、文字は読めなくてはならない。保守的だと批判されるかも知れないが、それが雑誌レイアウトの基本のキであると思っている。もし、前衛的なイメージや過激さを演出したい目的があるなら、レイアウ至上主義的ページを特別に設ける方法もあるだろう。しかし、伝えるべき内容のあるページでは、デザイナーはその内容への関心や配慮を心にとめた上で、ビジュアルや文字を犠牲にしないレイアウトを考えるべきであろう。
見えない絵/写真、読めない文字をこれ以上増やさないで欲しい。



「平凡社新書」と「洋泉社新書」、
「光文社新書」と「集英社新書」


造形エレメントのうち、視覚に訴える力が最も強いのは「形(かたち)」だろう。私たちの視覚はまず対象の形を読み取ろうとするものだ。ただ、その形に際だった特徴が無い場合は、形より要素の配置の方が重要になってくる。
天井や壁の模様やシミが人の顔に見えたりした経験は誰もがもっているだろう。これは模様やシミが、人間の目や鼻、口の配置と似ている場合に生じる。目や鼻、口の形がそれほど本物と似ていなくても(たいてい全然似ていない)、配置が似ているだけで、我々は似ていると感じるようだ。遠くに友人の姿を見かけた時、子細に観察しなくても友人だとわかるのも同じ理屈で、我々の視覚はちょっとした配置の特徴から識別できるようになっているらしい。装丁も同様で、タイトルや著者名の配置が似ているとそれだけで装丁が似ているという印象を抱きやすい。
形や要素の配置で識別が難しい場合は、こんどはたぶん色が識別の主役になるだろう。

新書の装丁にからめてこのあたりの事情を考えてみたい。
新書のデザインは各社とも比較的単純な幾何学図形が主流であるため、形の上での差違が少ない。おまけに下三分の一が帯で隠されることもあって、形での識別がなおさら困難になりがちだ。そのため、書店で新書は形よりも、タイトルの配置や背景の色で見分けられているのではないだろうか。
だが、上記4冊の新書の装丁は、困ったことにその配置や色までが似通っているので、識別にいっそう骨が折れることになる。


平凡社新書(左) 洋泉社新書(右)

平凡社新書と洋泉社新書の装丁は、図形としては共に斜めの直線が印象的だ。背景色は赤とオレンジの違いはあるが、書店では「赤い本」としてひとくくりに認識されるだろう。
一目でわかるように、文字に関しては、横組みのタイトルの位置、明朝体の書体、文字の大きさ、太さ、どれもそっくりである。また、著者名のゴシック書体とその位置、英文ルビ、どれもよく似ている。上部に位置しているロゴマークも含めて全体の配置が酷似している。こうして並べて細かく比較しない限り書店での区別は困難だろう。(それほど似ていないと感じた人は眼をぐっと細めて眺めてみるといい)
この二冊の装丁が同じデザイナーの手によるものであることは問題であると言わざるを得ない。

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光文社新書(左) 集英社新書(右)

光文社新書と集英社新書はどうか。
文字に関しては、縦組みのタイトルが共にノド側に、著者名は小口側に位置している点で似ている。また、ほぼ同じ位置に配置されたワンポイントの線画イラストもよく似ている。色はよく見ると違いはあるが、多数の色が氾濫している書店では同じ色として認識される程度の差でしかない。「白っぽい色」として記憶している人が多いのではないだろうか。
形は、一方は三角形の斜め方向に特徴があり、他方は矩形だから違いがあるとは言える。しかし、色が薄いことや単純図形であるため、印象としての差違は少ない。この二冊を書店で見分けるのにも観察力を必要とするだろう。


こうして見ると、単純な幾何学図形の装丁では、配置と色による明解な差違を設けることが最も容易な識別のポイントになりそうだ。しかしそうはいっても、タイトルのあるべき位置は限られているし、色が異なればそれでいいわけでもない。読者に広く受け入れられるような基本色には限りがあるし、文字が目立つ色でなければならないという条件もある。単に風変わりな色にすればそれで解決するわけではないのだ。
新書のカバーデザインは、どんな内容にでも合うような基本的・汎用的なデザインが求められるから、図像も色も基本を大きくはずれることはできない。認められるのは個性的なデザインより誰にでも好まれるデザイン、つまり会議の場で多数決で決められるようなデザインになる心配がある。

………

うーむ、まずいな、ここまで書いてきて、どの装丁も似通ってくるのが当然のことであるような気がしてきた。論旨が少し脱線しつつある。しかし、もう少し話を続けてみる。


コスト削減の圧力の高まりで、イラストや写真の使用が望めない新書の場合、形による差別化の範囲は狭いものとならざるを得ない。色による変化にも限界がある。したがって、新書のデザインが似通ってくるのはある程度しかたがない、と一応言えるだろう。しかし、デザイナーが現状に甘んじるなら、それはデザイナーとしての自らの職分を放棄するに等しい。デザイナーが責任を負える範疇を超えた問題があることは確かだが、見分けのつかないような装丁がこれ以上書店に氾濫するのを止める最終責任者はやはりデザイナーだろう。

意図しない方向に話が行ってしまいそうになったため、最後は強引にまとめてしまった感が自分でも否めないが、新書の装丁については今後とも継続して考えてみたいと思っているので、今回はこんなところで。






吉岡徳仁 Honey-pop

吉岡徳仁の「気持ちをデザインする」と言う言葉はおもしろかった。これだけでは何のことかわからないが、番組(NHK「仕事の流儀」)を見ているとなんとなくわかったような気分になった。

たしかに形にばかりこだわったプロダクト・デザインには限界があるように思う。引き合いに出して申し訳ないが、深澤直人のプロダクトデザインはそれ自体は素晴らしいが、彼のデザインで生活用品を揃えようとは思わない。あんなにシンプルなデザイン製品が部屋にいくつもあったらまるでSF映画のセットのようになってしまいそうだ。シンプルでユニークな美しさは認めるが、深澤のデザインは生活道具というより観賞用の作品のようで、生活を拒絶するデザインのように感じる時がある。生活道具がそれではまずいだろう。

以前からそういう思いがあったので、「気持ちをデザインする」という吉岡の言葉は、形のデザインを超えるデザイン流儀として理解できた。吉岡のデザインは深澤のような緊張感を強いるところがない。遊び心や、使う楽しさを感じさせるのはたぶん「気持ちのデザイン」のたまものだろう。


DTP
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文字書体にこだわるようになったのは、ブックデザインに手を染めるようになってからだと思う。それ以前の広告代理店時代には、文字にそれほどのこだわりはもっていなかった。広告制作ではなんといってもビジュアル勝負だった。撮影チームを組んで、予算も手間もかかる大がかりな撮影が多かったので、精力の大部分はそちらで消耗していた。
広告代理店を辞め、ブックデザインを始めた当初、ブックデザインの制作予算の少なさに驚かされた。とても広告のように写真を撮ることなどできないので、低予算でおさめるため自分でイラストを描いたりした時期もあった。しかし、ブックデザインではタイトルがことのほか重要だとわかったので、タイトル文字の工夫に時間をかけるようになった。そうしているうちに自然と文字への関心が高まっていったのだと思う。

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ブックデザインを始めて10年間は写植だった。
原稿用紙に写植指定をして写植オペレータに渡す。上がってきた写植の印画紙の裏にぺーバーセメントを塗って、カッターマット上で切り分け、切った写植を水平・垂直に気を配りながらレイアウトに従って紙の版下台詞に貼りつける。一文字でも変更があると、その部分の写植を打ち、また貼りつける。忍耐と集中力を必要とする細かな作業だったが、DTP以前のフィニッシュワークは誰もがこうしていた。

DTPになって文字は写植からフォントに変わった。当初は手に入る限りのフォントをすべて入手しようと頑張ったからフォントに費やす予算の方がコンピュータやソフト関連に使う金よりずっと多かった。しかし、市販フォントのほとんどが気に入らなかった。しかたなく、少しでも写植に似ているフォントを探して購入した。フォント探しに神経をすり減らしたばかりでなく、時間と金もずいぶん使ってしまった。

フォントの中でのお気に入りは、字游工房の游明朝五号かな、36ポかな、游築見出し明朝体などだった。ヒラギノ書体はマックOSXにバンドルされるずっと以前から使っていた。これらの書体の特徴は写植のオールドタイプのもつ優雅な曲線を多少は残している点にあった。S明朝体、本明朝体なども初期の頃はよく使った。
しかし本当に使いたかったのは読売見出し明朝(YSEM)や、秀英明朝(SHM)だった。本文書体としては石井明朝(MM-A-OKL)が欲しかった。明朝体で太くたくましいイメージが欲しい時は、写植時代は民友かなと秀英明朝や石井特太明朝との組み合わせが好みだった。明朝体は太くしすぎると元来明朝体のもっている優雅さを殺してしまうものだが、民友かなは太くてもそれなりの優美さを残している優れた書体だと思う。デジタルフォントにはこれらの写植書体に匹敵するものがなかった。

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問題なのは、上で列挙したお気に入り書体がDTPでは使えないことだ。これらの書体は写研という私企業が著作権を独占しており、DTP時代の今日もなをフォントになっていない。これからもなる可能性は低い。写研が自社の高価な電算写植機と抱き合わせでないと文字を使わせようとしないため、一般に広く使用できない状態が続いている。文字と組版ソフトウェアを切り離すことはできないと言う写研の見識は理解できるが、かといって、文字という国民の文化財を私企業がいつまでも独占するのはゆるされることではない。写研が儲けるのはかまわないが、文化財である文字を広く一般に使える環境を整える責任があると思う。
アウトラインデータ・サービスなどというせこいビジネスモデルで延命を図ろうとせず、早くDTPで普通に写研文字が使えるようにして欲しいものだ。もはやDTPを後戻りさせることはできないのだから。

(つづく)


本店のウェブサイトのコラム集「老水夫のごとく」更新しました。
Column04「安全の選択」




カバーデザインといっしょに本文の文字組版(以下、組版)を依頼されることがままある。しかし、組版は編集者の守備範囲だと思っているのでこれまでは断ることが多かった。デザイナーが参加する組版は、詩集やビジュアル本など特殊な本に限ると思っていた。ところが、DTPソフトによる組版が主流になってから時々ひどい組版を見かけることもあって、組版もデザイナーが関与しないといけない時代かも知れないと考えるようになった。

厳密に言えば、組版と版面設計は別ものだが、実際は一体のものとして認識されている場合が多いと思う。
組版は、行頭・行末の処理、字間の空き処理などのことであり、文字書体・大きさ・行間・行長・マージン処理などは版面設計の範疇に属する。版面設計はデザインセオリーに関わる領域であり、ルールとして処理される組版とは性質を異にする。そうはいっても、版面設計にも歴史を経た多くの定石が存在しており、その定石を経験上体得している編集者は版面設計においても専門家(のはず)である。
しかし、DTPの登場でその伝統が崩れかけてはいないだろうか。マージンのバランスの悪さ、狭すぎる行間、大きすぎる小見出し、ふさわしくない書体、いわゆる「ウィドウ」や「オーファン」、一貫性を欠く処理など、不適切な組版/版面設計を見かけるたびにどうしてしまったのかと心配になる。昔はあまりひどい組版/版面設計はなかったように思う。ベテラン編集者は後輩の新人編集者に組版/版面設計の基本をちゃんと教えているのだろうか。
数年前、仕事(組版は請けてなかったが)で、オーファンやウィドウが気になって編集者にそのことを指摘したことがあるが、乗り気の無い返事しかもらえなかった。
その出版社からの仕事はそれっきりになった。


                ●


ベテラン編集者が読むかも知れないブログで組版の話をするのは少々腰が引けるが、レイアウトソフトに本文テキストを流し込めばそれでOKと考えているような新人編集者を想定して話しを進めたい。

組版は端的に言うと「約物(やくもの)」の処理に関するルールである。ならば話は単純なはずだが、実際にそうはいかないのは、何百ページもの書籍では、こちらでルールをたてるとあちらでルールが守れないといった事態が頻発するからである。一通りのルールでは処理できないのが組版なのである。出版社ごとに独自の組版ルール(ハウス・ルール)が存在するのもこのためであり、先輩編集者が後輩に教える際の難しさもそこにあるのだろう。


組版ルール自体は決して難しいものではない。難しい点があるとすると、それは組版に対する感受性である。読みやすい組版、読みにくい組版、美しい組版、美しくない組版に対するこだわり(感受性)こそ求められる能力である。そもそも組版は「読みやすく、誤解をまねかない文字の組み方」のことだから、ルール以前に読みやすい文字組がどのようなものかを判断できないと話にならない。しかし、こちらは参考書を読んだくらいでは身に付かないかも知れない。多くの組版を眺めても、どの組版も同じに見えてしまう、どこが違うのかわからない、どっちでもいい、としか感じないとしたら感受性に問題があると言わざるをえない。

話を続ける前に、むごい組版(と言うより版面設計だが、面倒なので組版という言い方ですすめる)のひとつの例をウェブサイトで確認してみよう。どうせなら有名サイトがいいので、一日のページビュー140万を誇る「ほぼ日刊イトイ新聞」からピックアップした。
まずはサイトを見て欲しい。


どう感じただろう。
ウェブとはいえ、いまだに行間がベタの上、短い文章を句読点で改行している。文章をこれだけぶつ切りにしてしまっては、読みにくいことはなはだしい。段落は本来一つの意味の固まりである。それを無視して改行しては内容がスムースに頭にはいってこない。(組版でなくテキストの問題だとする考えはここではとらない。)
ウェブは紙の本と違い、組版が難しいという事情はある。しかし、このサイトの組版のむごさはそれだけが理由ではないだろう。組版への無関心、あるいは感受性(の鈍さ)に理由があるのではないか。

「改行が多くて読みやすかった。」
などと間違っても言わないでもらいたい。


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基本日本語文字組版 逆井 克己著

*お勧め本
文字組版の基本を実例を挙げながらわかりやすく解説している。
が、絶版となった今ではずいぶん高価になってしまったようだ。


(文字組版について その2へ続く)