フォトショップが創造するバーチャルな「美」
No wonder our perception of beauty is distorted
The Evolution Of Beauty
Every girl deserves to feel beautiful just the way she is.
誰でもその人なりの美しさをもっています。
Beauty is a product of photoshop
フォトショップがいくら万能であっても、美しさの理念を創造することはできない。何が美しいかを決めるのはあなたである。
幻滅してしまった人のために――
Dove Pro-age Campaign
too old to be in an anti-aging ad
but this isn't anti-age
this is pro-age
アンチ・エイジング広告に出るには歳をとりすぎていますね
でも、これはアンチエイジの広告ではありません
これはプロエイジ広告なのです
pro-ageとは、自然に逆らって無理に若返る(anti-age)のではなく、年齢にとらわれず楽しく生きる姿勢のこと。
最後にこちらで息抜きしてお帰りください。
Guinness "Evolution"

「主婦の友」休刊。
「主婦の友」の休刊のニュースを見て、「家の光」「蛍雪時代」を唐突に思い出した。どれも読んだことはほとんどないので何でだろうと思ったが、たぶん最も古い記憶の底にある雑誌という点で共通していたためだろう。
主婦の友の雑誌名だけは昔からなじみがあるので、休刊と聞いて、親戚の叔父さんや叔母さんが亡くなったような気分になった。普段のつきないはなくとも、どこかで気持ちの支えになっていた人がいなくなってしまったような、そんな感じだ。昔から変わらず存在する人やものはそれだけである種の安心感をあたえるオーラがあると思う。
「主婦の友」は1917年(大正6)の創刊というから、記憶の一番古いところどころか、生まれるずっと前からあったわけだ。これほど古い歴史のある雑誌が他にあるだろうかと記憶をさぐってみたら、「婦人公論」と「文藝春秋」を思い出した。ウィキペディアで調べてみると、文藝春秋は1923年の創刊なので、6馬身差で主婦の友の勝ち、「婦人公論」は1916年で「婦人公論」の辛勝だった。「婦人公論」が生き残っているのは、エロ系にシフトしたからかな。
戦後は、「主婦の友」「婦人倶楽部」「婦人生活」「主婦と生活」が4大婦人雑誌と呼ばれたらしいが、戦後は「婦人公論」が売れなくなっていたのだろうか。私の記憶の中では「主婦の友」と「婦人公論」以外は印象が薄いのだが。
カメラなんかだと製造終了したとたん急に売れ出したりする現象が珍しくないが、雑誌の場合は最終号が爆発的に売れたりするのだろうか。
デジタル時代は何もかもが短命なので、91年もの歴史を持つ雑誌の終焉は、それだけで大事なものを失ったような不思議な気にさせられる。

どういう訳か、柳田国男の『山の人生』所載のこの文章は多くのブログに引用されている。短くてブログにちょうどいい長さだからなのか。悲しい話だからか。あるいは身につまされるからか――
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今では記憶している者が、私の他には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞で斬り殺したことがあった。
女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰って来て、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手で戻って来て、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。
眼がさめてみると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当たりの処にしゃがんで、しきりに何かしているので、傍へ行ってみたら一生懸命に仕事に使う大きな斧を磨いていた。おとう、これで私たちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢に入れられた。
この親爺がもう六十近くになってから、特赦を受けて世の中へ出てきたのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分からなくなってしまった。
柳田国男「山の人生」〜「山に埋もれたる人生のある事」より
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今こうして読むと、最近起きた一家心中のニュースを重ね合わせて思わざるを得ない。
2月11日、足立区の機械工S(52歳)は、オノで妻(49歳)と母(85歳)の頭を割って殺し、次男(15歳)の後頭部を陥没させ、両手首を切り落とした。自身はその後自殺した。遺書が残されており、西新井署は無理心中と見ている。
昨年12月3日、世帯主の男(56歳)は、父(83歳)、母(79歳)、長女(30歳)、孫(5歳)の4人の頭を鈍器で殴打した後、自宅に油をまいて放火して焼死させた。県警は無理心中と断定して男を被疑者死亡のまま書類送検した。借金苦による無理心中と見られている。
柳田が『山の人生』を『アサヒグラフ』に執筆したのは1925年のことである。それから80年以上がたち、21世紀になった今日もなお、この日本では貧困に起因する一家心中が後をたたない。
上記の心中事件は共に高齢者をかかえている。家族の経済的負担は大きかったと思われる。しかし、政府は「後期高齢者」というグロテスクな言葉を使って、この4月から75歳以上の保険料負担を増大させる後期高齢者医療制度をスタートさせる。
いったい私たちはどんな時代に生きているのか。

中国産毒入り餃子が問題になっているが、餃子が安くて旨いと評判の「大阪王将」が駅前に進出してきた。普段あまり餃子は食べないが、繁盛しているようなので入ってみた。
驚いたのは、餃子だけを二人前注文してそれだけを食べて出て行った客を目撃したことだ。餃子だけを黙々と食べる光景は少々異様に見えた。いくら旨くても餃子だけでは食事とは言えないだろう。また、大阪王将では餃子を注文すると「1枚でいいですか」と問い返してくる。これにも驚いた。一人1枚が普通ではないのか。
大阪ではお好み焼きをおかずにしてごはんを食べるのも珍しくないようなので、関東とはかなり違った食文化があるようだ。あるいは餃子だけで食事をすますのもよくあることなのだろうか。ネイティブ大阪人に見解を聞いてみたいところだ。いずれにしても、個人的にはこの「餃子事件」はカルチャーショックだった。
婚約者が音をたててそばを食べたことが原因で婚約が破局したニュースがあったが、夫婦間で食事文化が異なったら確かに一緒に暮らすうえでいろいろ問題が生じてきそうだ。もし相手が外国人だったらそれなりに割り切れても、大阪と東京の違いぐらいだったら食文化の違いを個人のマナーと勘違いして問題になることもありそうだ。
余計なお世話だが、大阪の人と関東の人が結婚した場合、この食事カルチャーの違いが問題にならないだろうかと気になる。私は、もし夕飯にお好み焼きとごはんを出されたら、あるいは餃子だけを妻が食べたりしたら、強烈な違和感を感じると思う。
上の写真の「朝はしっかりとうどんモーニング」は高知で撮影したものだ。「うへーっ、朝からうどんかよ」と感じる諸兄が少なくないと思う。もしあなたの婚約者がこの店に入ってうどんモーニングを食べ、「やっぱり、朝はうどんだね」と言ったら、あなたはどう感じるだろうか。私は高知生まれなので、急いで訂正しておくが、高知に朝からうどんを食べるという習慣はない。この店固有のサービスである。
食い物の恨みは恐ろしいというが、食い物の習慣も人間関係の上で要注意である。もし婚約者の食べ方が変だと感じた場合、婚約を解消する前に、それが相手の育った地方の一般的な食文化なのか、個人的嗜好なのかを見極めることを理解の第一歩とすべきだろう。日本も広いのである。

『片づけられない女のためのこんどこそ片づける技術』
『貯められない女のためのこんどこそ貯める技術』
池田 暁子 文藝春秋
「女のための」と限定されているが、私のバイブルである。
どうしても片づけられない。どうしても貯まらない。何度試みても続かない。そういう自分にほとほと愛想がつきた。しかし、それでもこんどこそ何とかしたい、何とかせねば…という悲鳴のようなノンフィクション(まんが)である。
いくつか実用的な情報が紹介されてはいるが、これといって特別新しいことが書かれているわけではない。――例えば、水あかにはクエン酸を、油よごれには重曹を使う(片づける技術)。例えば、毎月使う分を決めて10日分づつ3つの封筒に分けていれておく(貯める技術)――簡単なことばかりであり、誰でも今日から出来る内容である。要は実行できるか否か、継続できるか否か、であるが、いつだって意思の弱い人間にはそれが問題であった。しかし、この本は意思の弱いあなたの背中を確実に押してくれるに違いない。著者自身がダメ人間からはい上がった人物だからである。
著者は実行して幸せになったようである。私は実行に努めている最中である。

『リアル鬼ごっこ』
山田悠介
幻冬舎文庫
いまさらだが、佐野眞一氏の『だれが「本」を殺すのか』経由でアマゾンのこの本にたどり着いた。
100万部突破。
映画化。
アマゾンのカスタマーレビュー数620――
そのレビューの内容がことごとくボロクソ、罵詈雑言という異常さ。
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3ページ読んだ後でゴミ箱に叩き込みました。
これを映画化するなんて…
何これ。ありえない
小説をなめるな。
こんなにも文章力のない作家がいたなんて(゜∀゜)
馬鹿にするにも程がある。
読むと馬鹿になります。
日本語が変になります。
今まで読んだ作家の中で最低クラス
こんな本で時間を無駄にしてるのが辛かった。
頼むから正しい日本語を使ってくれと叫びたい。
俺はこれは本ぢゃないとおもうな。
ひどすぎる。
なんの羞恥心も無く、こんな本をだせるなんて…。
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この調子で延々と続く――
これはもう読んでみるしかないのでアマゾンに発注した。
どんなひどい文章であっても、ブログならこれほど罵倒されることはないだろう。つまり、このおびただしいレビューの罵倒が意味していることは、本にはそれなりのレベルが期待されているということである。ウェブの文章はどんなにひどくても、素人丸出しでも許せるが、本の場合はプロの仕事として恥ずかしくない水準を維持すべきであると考えているのだ。
まだまだ、本も本の読者も健全である。





